ちよの考察

嵐について、映画について、小説について、いろいろ考察するのが好きな私の独り言。

青春は嵐とともにあった。

2018/12/1

 

嵐を好きになってまもなく10年。

はじめてコンサートグッズを買いに行った。

 

改めて、嵐という存在のすごさを実感する。

 

 

 

あれは嵐が勢いを増した10周年のころ。小学生~中学生の私の周りでも嵐のファンが増えてきたころだった。

「Believe」で私の"好き"に火が付いた。

 

田舎に住み、お金もなく、CDを買えるお店も車で20分かかったあのころ。

インターネットで嵐の情報を集め、レンタルCD店に行っては嵐の曲を聴き漁り。

櫻井さんに感化されてHipHopまで大好きになり、「人間失格」を読んでみたり、深夜のニュースを見るようになったりした。

 

思えば嵐が世界を広げてくれた。

 

 

 

時は経って、私も勉強や部活で忙しくなり、嵐の優先度は低くなっていってしまった。

10周年を過ぎてもなお勢いを増す嵐に関して、流れてくるいろんな記録達成や偉業のニュースを耳にしては、どこか嵐が手元を離れて遠くに行ってしまったような思いも感じていた。

それは、きっと嵐がデビュー後数年、あまり売れない時代を経験した中でも、5人が離れることなく、自らを生かせる道を見出し、成功していったストーリーに共感を覚えていたことも大きかったと思う。

嵐がどんどん大きな存在になっていくのは、うれしくもあり、「自分だけのものではない」というさみしさに似た何かもあったと思う。

 

 

そして私は大学生になって、上京してきて、今年再び嵐を追いかけるようになっている。

きっかけは何だっただろう。偶然動画で「未完」のMステの映像を見たことだったかもしれない。そこには自分が知っていた嵐以外の、新しい嵐像があった。

成熟した嵐。

新しい曲調に挑戦する嵐。

ニゾンではなく一人ひとりが聴かせる嵐。

新しい演出を取り入れる嵐。

トップになってもなお、貪欲に新しい自分たちを追い求める嵐。

 

 

その一方で、変わらない嵐もいた

ファンやスタッフ、そしてメンバーへの感謝を忘れない嵐。

謙虚な嵐。

 

そこに好きになった。
それと同時に、同じ10年を歩んできた自分も振り返ることになった。

あの頃の自分と今とで変わったのは、嵐の姿だけではない。

10代のあのころから見た20代のメンバーと、20代の今から見た30代のメンバーとで、年齢差は変わっていないけれど、見えるものは変わっている。

 


そして今日、はじめてコンサートグッズに手を出した。

そこで学んだことはたくさんあった。
40代以上の人から中学生の女の子まで、いろんなファンがいた。男性や夫婦の姿も多かった。それだけいろんな年齢・性別のファンを獲得しているんだ。

会場のスタッフの数、後ろに並べられたたくさんの段ボール箱、ファンが使っていく金額、すべてに圧倒された

 

本当に嵐が動かしている人・もの・お金は大きいんだ。

デビューしたころ10代だった彼らが、20年の時を経てこれだけのグループに成長していること、そして成長したのちも何年もその位置を保ち続けていることを改めて実感する。

 

 

「どうして嵐がここまで大きくなれたのか」、それは私にとって永遠の問いである。

どうしてこの5人だったのか、嵐ができなかったり、この5人以外だったら今頃どうなっていたのか、と想像するが、この5人の嵐以外の未来は全く見えてこない。

それだけ完璧な、ほかのストーリーを描かせない、グループであるということか。

つまり今までどのグループも歩んでこなかった未来を歩いているからこそ、私たちのどんな想像も及ばないのだろうか。


「未完」の詞が浮かぶ。

「目の前には誰もいない、その未来自分次第」

…なんのロールモデルも存在しない、この先の未来がどうなるのか、それを彼らと一緒に見てみたい、そう思わせられるのである。

 

 

今目の前にある「5×20」のロゴの変わらなかった5の意味と、20という数字の大きさとを噛みしめながら、今日の午後を過ごしている。