ちよの考察

嵐について、映画について、小説について、いろいろ考察するのが好きな私の独り言。

メンバーそれぞれの「嵐愛」

2019/2/3

 

ベイストを聴きながら。

「嵐」とは、彼らメンバーにとって一体何なのか。

 

 

 恐ろしいほど飄々としたしゃべり口なのに、内容はグループ愛に溢れていて、二宮さんらしいなぁ。

「4人とか6人とかでは、嵐の人間が嵐と感じられないので、それをお届けするのはできない」と。

 

「5人を強調することがかえって大野さんにプレッシャーになる」とか、「4人でもいいから続けて欲しい」という意見もあって、それに共感する部分もあったけど、今回の二宮さんの説明が真理なんだろうな。

「自分らが納得できないものを外には出せない」とは何ともプロとしてのプライドを感じさせた。

会見でも「それを嵐と名乗って出るのは嫌だ」というような趣旨の発言があったけど、それが真理なんだろう。

 

合わせて、二宮さんは嵐が大好きで、5人でないと嵐じゃないという考えが何気に一番強そうだから、1人のファンという立場でも4人で活動する嵐には納得ができなかったのだろうな。

魅せる立場と、それを見る立場と、両方の視点をお持ちなのが独特の感性だと感じた。

 

地味にこの人は、5人の中でも際立って、嵐の一員であることに対して、自分が芸能界で生きていく意義を見出している人だと思う。

「ファンのため」とか「自分もやりたいことを表現するため」とか、ゼロではないんだろうけど、他のメンバーよりもそれらは色濃くない。

音楽の才能も、芝居の才能も、しゃべりの才能も、十分すぎるほどある人で、かつ芸能の仕事は好きなんだろうけど、かといってもし嵐の一員でなかった場合に、一人で芸能の仕事をしていたとは考えにくい。

二宮さんにとって「ソロの仕事は嵐の活動に還元するためにある」という発言があったように、あくまで「嵐ありき」の他の仕事であり、「嵐の二宮」だからこそ受けてきた仕事なんだろうし、それぞれの仕事に対して執着は強くないし、自我を出さない(それがあの演技を生む源であるとも考えられる)。

そういう点では、嵐の中では一番グループ愛が強い人であり、(誤解を恐れず言うなら)一番嵐に依存している人だと思う。

そういう意味では、嵐を残したいという意見が強かったメンバーの一人なのだろうし、何より嵐が残ったことが今後の仕事の原動力になるんだと思う。

 

 

「嵐愛の強さ」という観点では相葉さんも似た点があるが、相葉さんにはそこまで「依存性」は強く感じられない点が二人の違いである。

相葉さんが復活をあれだけ望む背景は、単純に「嵐が好き、嵐のために頑張りたい」という純粋な愛情なんだと思っている。

 

 

櫻井さんも嵐愛は強いだろうが、グループと個人の間の境界はかなり保っている点が違うところだと思う。

何よりJr.時代から「他の人がやっていないこと」を追い求めた結果、今のソロ活動があるというタイプの人だし、芸能界にいる理由が、嵐になった時点で「もう戻れない」と覚悟したことによる人だからだ。

そういう点では、二宮さんのグループに対するソロの立場とはかなり違うんだと思っている。

櫻井さんにとって嵐はある意味「呪縛」でありつつも、嵐の一員であることによって初めて輝き出す(嵐の一員としての)自分の個性とか、嵐だからこそ見える景色とかを分かっていて、それが嵐を続ける原動力になっている人なんだと思う。

 

こう書くと妙に打算的な人に映ってしまうが、そういうことではない。

そして、単なる帰属意識とか、責任感とかだけで動いてきた人でもない。

母校とか、ソロの仕事での関わりとか、いろんなコミュニティーがある中でも、あれだけ嵐を特別な関係・宝物と評している彼は、非常にロマンチストで、

おそらく「嵐」という大きな物語を愛している。

いろんなタイミングにおいて、自身の詞で嵐の立ち位置や目線を示してきたのは、そういう面が関わっていると思う。

 

 

 

松本さんも櫻井さんにかなり近いが、嵐愛の強さという点では相葉さんにより近い。

松本さんは表現したいものを数多く持っていて、それを出す媒体として嵐だったり、その一員である自分に価値を見出していて個人の仕事は「嵐の一員の自分」とはまた違う自分の表現の場に使っているんだと思う。

そういうソロの自分とグループの間の棲み分けは櫻井さんに近いものがある。

 

一方で嵐愛もかなり強いので、相葉さん同様「嵐が好き、嵐としてもっといろんなもの見せたい」というところが、嵐を残させた原動力なのかも。

ただし演出家の側面は、二宮さん同様に、「5人でない嵐で見せるものに納得ができない」という思いが強そうだから、それも5人の嵐にこだわった要因だろうな、と想像。

 

 

大野さんはここに来て他の人とはだいぶ違う。

もちろん嵐がある意味「呪縛」になったというところは櫻井さんと共通するだろう。

大野さんが違うと思う点は、大野さんが嵐の焦点をグループそのものより「自分以外の4人」にかなり強く当てているところである。

「この4人だったから続けられた」という発言が多いように、彼にとって嵐とは「他の4人と一緒にいる場所」なんだろうな。

 

嵐というグループを手の内に収めていない感じが、他と違うと感じるのだ。

だからソロはソロの仕事だし、振り付けなど嵐内の役割に関しても「こういう風に頼まれたから」「他の4人にこういう動きをさせたいから」という気持ちが強そうに見える。

表現者としての面はよく見られるが、それが「嵐の一員として自分やグループをこう見せたい」という感性には乗っかっていないという点で松本さんや櫻井さんと大きく異なる。

かといってそれはグループ愛がないからというわけではなく、表現の母体とか自身の存在の在り処を嵐というグループに置いていないというだけである(これも二宮さんと異なる点)。

 

大野さんにとって「嵐愛≒他の4人への愛」なんだろな、と思う。

言い換えれば、ソロの自分とグループの一員としての自分との間に距離がなく、グループと個人との境界がはっきりしている人である。

 

加えて、何故か大野さんにはその4人に対する「劣等感」「罪の意識」のようなものがどこか見え隠れするのだ。

本当は才能や実力的にグループ内トップなのに、本人の自覚があまりないように見える。

だから、大野さんの最初の考えは、「自分がグループを抜け、嵐は畳み、4人もそれぞれの道を行く」という方向だったのでは。

その考えになるのは、他ならず大野さんらしいのだ。

「個人として生きてみたい生き方がある、でも自分に付き合わせて4人に迷惑をかけたくない、かといって嵐(大野さんには≒4人である)は捨てがたい」という考えがあったのでは。

 

その着想は、松本さんが「嵐を閉じることも考えた」という時の着想とは全くベクトルが違う。

松本さんが言う時の「嵐」とは、一つの作品、あるいは作品を出す媒体というニュアンスが強い。表現者として、一番綺麗な形で作品を永久保存版にしたいという考えは納得できる。

 

 

ただ、改めて私たちがここで確認すべきは、彼らがそれぞれに残したかった(あるいは畳みたかった)「嵐」とはそれぞれ違うものを指しているということと、その背景に嵐に個人をどう定義づけているかの違いがあるということ、そしてそうした細かな考えの違いを把握して一つの結論を得るのにそれだけ時間を要しただろうということだ。

 

だからそういう定義の違う「嵐」や個人の考えを一緒くたにして、部外者が勝手に推論してものをいうのはダメだと思う。

当然私の想像も違うところがあるだろうが、勝手な想像を押し付けあって言い争ったり、詮索しすぎて彼らのメッセージを読み間違えたりするのはしたくない。