ナラタージュ(5)~何故「ナラタージュ」だったのか~
2018/9/7
ナラタージュ(=ナレーション+モンタージュ)であった意義は何だったのか。
どうして、主人公が過去を回想する形にしたのか。
映画では、泉は案外あっさり葉山先生を「思い出」に昇華させられたように描いていたけれど、冷静に考えるとそんな簡単にいくはずもない。
実際、小説では泉は新しい恋人ができても、結婚を決めても、どこかで葉山先生を想い続け、とらわれ続けている。
そのくらい大きな一生の恋だったのだから仕方ない。
ただし、そうやって葉山先生を考えたり、過去を思い出したりする一つ一つの作業は、葉山先生を思い出に昇華していくために必要なゆっくりとした作業であり、そこに悲壮感や諦めの気持ちは見えてこない。
すごくリアルな人間らしさだと思った。
そう簡単に人間は過去を片付けられるはずがない。
小説の最後のシーンは涙が止まらない。
葉山先生の友人に会って、葉山先生を思い出して、葉山先生が妻とやり直した後にも拘らず泉と撮った写真を大切に持っていて、すれ違う人に泉の面影を探していたという事実を聞いて、泉は涙する。
自分が葉山先生にとってどういう存在だったのか、それを改めて実感できた場面であり、それによってまた葉山先生との過去がすこし色を変えて思い起こされる。
そしてまた少し色を変えて記憶に再定着する。
こういうことを何度も経て、葉山先生との思い出は少しずつきれいになっていくのだろう。
同じようなことは、私たちの日常生活でもよくあることだろう。
私たちは時に過去を思い返し、過去を知る人と再会したり、思い出を誰かと語り合ったり、あるいは一人で反芻したりすることを通じて、記憶を整理して、思い出を解釈しなおしたりして、当時のいろんな感情もきれいな思い出にゆっくりと昇華させていくのだろう。
そのゆっくりとした過程が、泉が葉山先生を諦めて、別れを告げて、そして思い出に変えて、これからを生きていくために必要な過程なのだろう。
でもそれは忘却とは全く違う。
いつだって泉は葉山先生を思い出すのだろう(雨の日は特に)。
でもそれは決して悪いことでも、つらく苦しいことでもなくて、泉がこれからを生きていくうえで必要なことだろう。
決して忘れることはないし、そうする必要もない。
こういうことを繰り返しながら人は大人になっていくのだろう。
自らの生きてきた道筋を俯瞰して、自らの居場所を確認するのだろう。
その作業を「ナラタージュ」は示している。