ちよの考察

嵐について、映画について、小説について、いろいろ考察するのが好きな私の独り言。

松本潤とアニミズムの話。

どうして松本さんがファンから「かわいい」「天使」といった評価を受けるのか、

考察したらアニミズムに行き着いた話をしよう。

 

 

 

ja.wikipedia.org

 

アニミズム

平たくいえば、「本来生命がないものに対しても、まるで生命が宿っているかのように捉えること」である。

 

原始宗教としてのアニミズムとか、日本の宗教観もアニミズムに近いものがあるとか(”八百万の神々”とかはまさにそう)、文化人類学における「アニミズム」の方を思い浮かべる人が多いと思うのだが、ここではいったんそれは置いておく。

 

幼児の発達段階における「アニミズム」を話題にしたい。

 

 

 

 

昔大学で発達心理学をかじったことがある。

 

ピアジェというスイスの発達心理学者の1つの定説に、「4つの発達段階」というものがある。

①感覚運動期

②前操作期

③具体的操作期

④形式的操作期

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自己とそれ以外の区別が出来ていないというのは、乳幼児において一つの大きな特徴である。そこからいかに発達を遂げ、自己と客体を区別したり、客観的思考を身につけたり、判断する力を身につけていくかという流れを説明したのがピアジェである。

 

0~2歳、ものを手で触ったり、見たりして得られる感覚や、運動によって働きかけることを通じて、自己と外界との境界を認識できるようになる。

 

2~7歳、言語を獲得し、「想像」ということが可能になる。いわゆる「ままごと遊び」が出来るようになる。

しかし、まだ客観的な思考は持てていない。

この時期の特徴の一つがアニミズムである。

 

例えばこんな例があるだろう。

・太陽や車に顔を描く(そういうキャラクターを描いているつもりではなく、実際に自分と同じように生命があるものと捉えている)

・草木に話しかける

・「お人形さんが寒いって言ってるから、お家に帰してあげようね」と伝えると、片付けてくれる

・自分のお気に入りのおもちゃが壊されると泣く(涙の由来は、大事なものが壊れたことの喪失感よりも、自分が怪我したときと同様の「痛み」として捉えていることによる)

 

 

 

そこから発達を遂げた私たちは、すでに身の回りのものに意識や感覚がないこと、勝手に行動するということがあり得ないことを「理解」している。

それは文字通り「理解」であり、「そう言われたからそう思い込むしかない」ということではない。

 

自分がおもちゃを置いた場所が変わっていたら、「誰かが動かしたんだろう(おもちゃはひとりでに動かないに決まっているから)」と考えるのが普通であり、「おもちゃが自分で動いたんだ」とは思わない。

 

 

中には霊的な力を信じる人もいるだろうが、それでも初めから「おもちゃが自分で動いた」という思考はしないだろう。

霊的な力が魅力的なのは、誰もが「それはあり得ない」と言うであろうことが、現実に起こりえた、という現象だからであり、「おもちゃが自分で動くことはない(=おもちゃ自身に意思や感情はない)」という前提を誰しもが持っているところに成り立っているものである。

 

 

 

 

かなり前置きが長くなってしまった。

ここまでをまとめると、アニミズムは生命のないものにも生命が宿っていると考える思考であり、それは幼児期の大きな特徴の一つであり、発達の段階でいつのまにか失われてしまうものである、ということである。

 

 

松本さんのなかの「アニミズム」的思考が見えるエピソードを紹介しよう。

 

 

①2010年の国立競技場の黄色い風船

ムービングステージの下に黄色い風船が引っかかり、それに気づいた松本さんが「救出」し、空に放ったという映像(『ARASHI 10-11 TOUR “Scene”~君と僕の見ている風景~STADIUM』に入っている)

このことについて自身のラジオで語った内容に、「アニミズム」的思考が見えた。

「風船苦しそう」みたいな。

風船が下にあるのが凄い気になって。

なんかこう魚を川に返してあげなくてはいけないみたいな。

 

 

「風船苦しそう」である。

 

 

同じようになった風船を回収するという行動自体は、別に特異性のあるものではないが、そのときの思考回路は特異的であると思った。

思考回路にアニミズムの要素が見える。

風船自身にあたかも感覚や感情があると思っているかのような発言なのだ。

 

 

②家にいるときのあいさつ(2013年「嵐にしやがれ」など)

家で一人でいるときにも「おやすみ」「ただいま」などを口に出して言うという話。

それくらいはやってる人もいるだろうと思うが、その理由が面白かった。

「だって、俺が家に帰ってきたよって、家に知らせないといけないでしょう?」

 

これには驚かされた。

この人は家という存在にもまるで意識があるかのような話しぶりをするのだ。

 

 

 

ゆるキャラ

これはちょっと違うかもしれないが、ゆるキャラ(の着ぐるみ)と戯れる松本さんの姿は結構有名である。

その戯れ方は、抱きついたり握手したりというオーソドックスなものはもちろん、何故か松本さんは着ぐるみに話しかけ、耳を近づけて「中の人」と会話を楽しむのだ。

 

それは「中の人」がいるという認識の元に成り立っている遊びなので、アニミズムとは違うのかもしれないが、

私には松本さんが「中の人の発言が、そのゆるキャラ自身の感情・行動だったとした場合にのギャップを面白がっている」というように見える。

すなわち、「そのゆるキャラが生きている」という前提に立った時に、「中の人の発言があまりに人間味が出過ぎていて、そのギャップが面白い」という思考回路をしているのではないか。

「そのゆるキャラが生きている」という前提部分に、どこかアニミズムを感じた。

 

 

 

 

そんなこんなで、松本さんは身の回りの「もの」にも何かと愛情を注いでいる人であり、アニミズム的思考が見える。

それは、決してわざと(=キャラクター設定として)やっているようには見えないところがミソだと思う。

おそらく彼自身は、自分のそういう言動に何の疑問も抱いていないし、何の意図も持っていない。

 

(具体例は挙げないが、ぶりっこキャラや幼児キャラ、不思議ちゃんキャラのタレントが「アニミズム的」な発言をするのとは違うということ。彼らはキャラクターとしてそういう発言をするわけで、心の根底で「お人形に感情がある!」とは思っていないはずである)

 

 

 そこで、「かわいい」「天使」のような評価とも関連してくるのだ。

 

彼は私たちが発達の段階でいつのまにか失ってしまったアニミズム的思考のかけらをまだ持っている。

(もちろん、「かけら」でしかない。当然、「風船は”もの”であり、人間とは違って感情や感覚を持たないものである」ということは、彼自身、発達の中で「理解」したはずである。)

 

そういう思考回路に、どこか「幼児性」を感じ、それが「かわいい」「天使」という評価を生み出す一要因になっているのではないか。

 

 

 

 

以上、「かわいい」と思う原因を求めたら、その一部分は「アニミズム」に行き着いた、というお話でした。